oisanのブログ

高機能自閉症 発達障害子育てを中心に 色々思ってる事

記憶・思い出 教えて欲しかった情報


私は小学校に通っていたとき
勉強が何のためにあり
何の役に立つのかさっぱりわからず


気になる授業面白い授業はしっかり聞いていたが
苦手な授業はほとんど聞かずに遊んでいた
工作三昧だった


(娘の内職と同じいやもっと

酷かったかも知れない机に

ハサミで横穴を掘ったり

机に縦穴掘ってゴルフ場を作ったりしていた)



残念な子供であった

徘徊等はしなかったが 

気に入らない授業は 

不真面目だった 叱られても改善せず

クラスからは出ないからと放置されている

子供に近かったと思う



まだ何になりたいとか将来も定まらず
なんとなく学校に行き時間を潰して帰る日々



学校は常に行きたくなかったので
娘の登校拒否したい気持ちはよくわかる



私の家では
登校拒否は許してはもらえなかったので

問答無用で家から出された
仮病で早退を繰り返す 問題児だった
(病弱ではあったので すぐに早退できた)



勉強が高校や大学の進路を決めるのに必要な
判断材料になる事を知らなかった



知らされていなかった 

知能が低いと思われていたので 

あまり親と会話も無かったな

親に疎まれていると思ってたので

自分から話しかける事は

その頃なかったと思うね


とりあえず子供は学校に行ってくれればいい

そんな感じだった 


通級で言葉の学級に通っていたので

発達障害であったのだろうね



当時のIQは75ぐらいだった

親がそんな話をしているのを聞いていて

記憶に残っている 


空間能力がやたら高いと話していたのを

後部座席で寝たふりしながら聞いていた

検査結果なんだろうと

息を潜めて聞き耳を立てていた

意味がわからなかったけど一語一句漏らさずに

覚えようと反芻していたな


20歳過ぎたらただの人だろう

期待するのがおかしいそんな会話をしているのを

覚えている


母がIQ75でも喜んでいたのでもっと

状態が悪いと 思っていたのだろと思う

言葉を理解しているってのが

嬉しかったようだった


数値的に狭間のグレーゾーンギリギリ

だったんだろうなと今なら分かる

普通クラスに入れられるってのが

大きかったんやと思うね



試験も無言で何も喋らずに 

無表情で指示に従って動いただけなので

タングラムや ゴム掛けをやったけど

質問には答えず 

指差しと頷く首を振るだけでやり遂げた

敵が味方か分からないので笑いかけもしなかったし

会話もしなかった


やたら褒めてくる

その人が胡散臭く見えていた

褒められて気持ち悪いとさえ思っていた


人見知りが激しく一年二年は様子見する

タイプだったので 人を信用してなかった

猜疑心の塊みたいな子であったのが災いした

喋らずにIQ75なら高い方なのではと?

今は思う 可愛く無い子供だっただろうな‥ 


笑顔で近づき つねるような大人が

周りに居たりすると

そんな子供になるんだよ 


説明したところで信じてもらえず

嘘つき呼ばわりされた事いまだに覚えてるもの

その方他界したけど 大っ嫌いだったな

懐かしい



環境で子供の性格は変わるよね

歪んだのは環境のせいだと思うね



水洗トイレが怖くて よく粗相をしていた

流れる音 流れる水 全てが恐怖だった

トイレに行く事も それを伝えることすら

怖かったな 

トイレの雰囲気臭い全てが嫌だった 

一緒に流れてしまうような気がしていた


トイレの形も自宅のと違っていたので

どのように成すのか分かりにくかったのもあるね

お出かけ余り連れてかれなかったので

経験が足らなかったってのもある




今思うとだいぶ迷惑をかけたなと思う

特にトイレは 紙おむつがまだそこまで

普及してなかった時代だったので

後始末は大変だったと思う



そんな状態だったので

いじめの対象ではあったよね



この頃は支援クラスは無かったので

あったとしても知的障害の方 身体障害の方

聴覚障害の方が在籍するクラスだったので

ちょっと発達が遅い子は普通クラスだった


似たような問題を抱えている子が

通常クラスに二、三人はいたよね



言葉の学級に通級してたのは

クラスでたぶん自分だけだったけど

もう1人いたかなちょっと

記憶が定かでは無いが


緘黙症の子も居たし 

多動でクラスを飛び出す子も居たな

その度に授業は中断したね

一緒に走り回りたいのを我慢してた

走り回るその子が羨ましとさえ思ってたな

 


あっという間に転校してしまったけど

仲間が減ったようで悲しかった

分散してた いじめの矛先が集中して

辛かったよ


よく頑張って学校に通ったよなと

親から学校の説明なんか何一つ無かった

学校に行って勉強して来いとは言われたが 

それがなんのためなのかの説明は無かったね



そうそう怒りながらの情報は何一つ

私の中に残らなかった

怒鳴り散らされたり叩かれたりは

昭和時代 当たり前だったけど


(怒っている表情や映像は記憶に残ってるけど

音声記憶がそこだけ皆無なので 

激昂して叱っても子供には残らないとわかる 

怒鳴り声は耳が痛いのと 精神的に病むような

叱責は 記憶から抹消されるのかも知れない?)


右から入って左に抜けるか 

なんか怒ってるなぐらいの感覚でしか無い

泣いて謝ったりはしたけれど

そこに感情なんて無かったわ

早く謝って終わりにしたいそんな感情での

謝罪だったもの


叩かれて泣いたけど何故叩かれたのか

全く覚えてないものね 

殴る親なんだ怖い

ぐらいの認識だったな



悪い成績だと怒られる
何でそんなに怒るのか意味わからなかったし
興味のない授業も大事なのだと

怒鳴らないで落ち着いた説明が欲しかった

やらなきゃいけないものだと認識してなかった



学校は時間つぶしか暇つぶしか何かだと
幼稚園と同じものだと思っていたので
運筆やらでやる気がそげたし 

最初が簡単すぎてナメていたのが大きい


(大人が働くために 

子供が通うとこ

そんな認識だった)



どうやら勉強が出来ないと
上の学校に行けないぞと知るのは
小学校 三年 四年生ぐらいで気づいたかな


因果応報 自業自得と言われればその通りではあるが
説明ぐらい欲しかったと当時思っていた
 


気づいたらスタートの合図ははるか昔なんだもの
今更頑張って追いつくのは無理なのでは?
そんな絶望状態からのスタートだった


勉強し直すにしても教科書を

廃棄してしまっていて

学び直しも大変だったのよ 

古い教科書は捨てる家庭だったので

学び直しが困難だった



教科書は暫く残して置いて

あげたら良いと思うし

後からエンジンかかった時に

教科書が無いと学びに時間がかかる


大人のからかいは勉強の邪魔なので

やめてあげたらいいと思うね 

教科書開くと明日雨が降る等のからかいが

多い家だったので 



そんな状態でも宿題だけはそれなりに

やらされた スパルタではあったが

母親が諦めてはいなかったのかも知れない

そこは感謝してる



子供が低学年の教科書を開いたとしても

指摘せずに見守ってあげたらいいと思いますよ


私は教科書廃棄されて手元に無かったので

国語辞典で学び直しをこっそりとしてましたよ 

言葉の語彙が伸びたのは国語辞典のおかげ


漢和辞典は後から存在を知ったので

学び直しは漢和辞典ですれば良かったと

後で後悔しましたね 


書き順が書いてあるのよね漢和辞典

なので書き順はボロボロでしたわ



あとは教育テレビをやたら視聴して

学び直しに役立てましたよ 


早退すると家で教育テレビを

見ることができたので

とっても助かりました 


(普段チャンネル権は

姉か父親だった為好きな番組は

見られないことが多かった)



日中の教育テレビは

実はかなり役に立ってるんですよ

早退して帰ってきて元気なら

教育テレビは許可してあげると良いですよ

授業の先取りも出来るし 学び直しも出来る

言葉もテレビで覚えたのが多いかも知れない



今は録画機能あるので

見せたい番組は録画しとくと良いですよ


娘からのリクエストで〇〇撮っておいて

なんてやり取りも出来ますしね

便利です



子育ては自分の経験記憶を参考にしている

幼少期からの記憶経験が娘の指導に役立っている



子供になぜ学校に行き勉強をしているのか

ちゃんと説明されていますか?


早めに説明してあげたら 伸びる子

きっといると思いますよ 


もし過去に行くことが出来るのなら

あの頃の自分に 

そのような情報を教えてあげたかったな 

少しは真面目にやったかもしれない

大人のからかいに屈しなければもう少し

違う景色が見えていたかも知れない



もう一度人生やり直したいかと聞かれたら

やりたくないけどね



注意  

昭和時代の教育の話なので共感できない事の方が

多いと思います そんな時代があったのね 

フィクションだと思って軽く読んでください

昔の当たり前が 今は虐待にあたるのは

周知の事実ですしね


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